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大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)2226号 判決

控訴人

平田香織

平田博史

控訴人兼右両名法定代理人親権者父

平田豊實

同母

平田末子

右四名訴訟代理人

吉村洋

村林隆一

今中利昭

田村博志

井原紀昭

千田適

松本勉

宇多民夫

被控訴人

学校法人関西医科大学

右代表者理事

岡宗夫

右訴訟代理人

米田泰邦

前川信夫

右訴訟代理人弁護士亡佐藤雪得訴訟復代理人

森恕

鶴田正信

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

一  当事者及び診療契約の締結等

次の事実はいずれも当事者間に争いがない。

1控訴人豊實は同香織の父、控訴人末子は同香織の母、控訴人博史は同香織の兄であり、被控訴人は、関西医科大学付属香里病院(被控訴人病院)を併設経営する学校法人であり、訴外伊吹良恵(伊吹医師)、同野呂幸枝(野呂医師)、同斎藤紀美子(斎藤医師)は、いずれも被控訴人病院の勤務医師であつたこと

2控訴人香織は、昭和四八年六月一五日午前九時頃被控訴人病院で、控訴人末子の妊娠八か月後半に、生下時体重一〇〇〇グラムの未熟児として出生したが、その際、控訴人香織、同豊實、同末子と被控訴人は控訴人香織の出産後の哺育につき診療契約を締結したこと

3控訴人香織は、出生ののち同四八年六月一五日午後二時頃、被控訴人病院内の未熟児センターに移され、同年七月二六日までの四二日間酸素投与を受け、同年九月一二日まで保育器内で看護を受けたのち、同年一〇月三〇日退院したが、この間未熟児網膜症(本症)に罹患し、両眼失明に至つたこと

4本症については、昭和一七年アメリカのテリーが、これを水晶体後方線維増殖症と命名して以来、多くの学者によつて臨床的、実験的研究が行なわれてきたが、昭和二六年オーストラリアのキャンベルがその原因として、哺育時における酸素過剰投与説を唱え、更に、キンゼイらの統計的研究の結果、この説が確認され、酸素の使用が厳しく制限された結果本症の発生は劇的に減少し、酸素が一因であることが明らかになつた。わが国でも、眼科、小児科学界等において、昭和二四年頃から、本症に関し、諸外国の経験、研究成果の紹介や、臨床研究が数多く発表され、昭和三九年以降は、国立小児科病院眼科植村恭夫らの積極的な研究発表、啓蒙活動により、本症の発症原因が明らかにされていること、また、本症の予防及び治療について、(1)本症の発症原因は未熟児に対する酸素の過剰投与であるから、未熟児に対する酸素投与は、濃度、量、時間のいずれも必要最少限度にとどめ、チアノーゼがおこつた場合でも安易に投与してはならない。(2)本症の早期発見、早期治療のため、未熟児の定期的眼底検査を頻回かつ精密に行う。(3)本症の徴候を発見した場合には、症状に応じて副腎皮質ホルモン剤を投与する。(4)薬物療法で回復をえられない場合には、本症が進行し網膜剥離をおこす前(オーエンスⅡ期が適期といわれている。)に、網膜周辺部に光凝固治療を実施するとされていること

二  控訴人香織の症状と診療経過

前示争いのない事実(一3)に〈証拠〉を総合すると次の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

1被控訴人病院の未熟児哺育体制

昭和四八年六月当時、大学付属総合病院である被控訴人病院では、産婦人科は、同病院三階に分娩室及び酸素供給装置のついた保育器を備えた新生児室を有し、生田部長以下五名の医師が分娩及び新生児の診療、哺育にあたり、小児科は、小児科病棟、及び保育器、一般ベッド合計三〇床を備えた未熟児センターを有し、野呂幸枝部長以下七名の医師が診療にあたつていたが、そのうち未熟児センターには専属医はいないが右野呂部長以下三名の医師が平日は一日一回定期回診をして未熟児の診療、哺育にあたり、眼科では、斎藤紀美子部長以下ないし四名の医師が診療にあたり、特に未熟児眼底検査については右斎藤医師がこれを専属担当していた。被控訴人病院産婦人科において未熟児が出生した場合には、担当産婦人科医師は直ちに同病院三階にある未熟児センターに入院連絡をとる一方、新生児室保育器(クベース)内において、保温、酸素投与等の必要治療を行い、未熟児センターの受入れ態度が整い次第、未熟児をそのまま搬送し、担当小児科医師に未熟児の出生時及びその後の状態、未熟児に対する治療措置を通知することになつていた。未熟児センター入院後、担当小児科医師が、未熟児の哺育、治療にあたるが、眼科との診療連絡については、小児科カルテの作成と同時に、未熟児の状態を書いた御高診用紙を作成して眼科に送り、原則として生後一週間目及び退院時に右斎藤医師の眼底検査を受けるほか、この間にも斎藤医師の指示により随時受検することとなるが、未熟児の全身状態の悪い時には、担当小児科医師の判断により、第一回眼底検査の時期を遅らせたり、その後の受検日を変更することもあつた。眼底検査は、右斎藤医師が未熟児センター内の暗室で行うこととし、検査結果を通知用紙に記載して小児科へ連絡するが、文字では表現しにくい所見等については別に口頭で連絡し、担当小児科医師は右所見に基づき酸素の投与及びその量を測定して治療するとともに、未熟児の心臓、呼吸の状態や酸素投与の状況等を斎藤医師に随時連絡し、未熟児の哺育、治療の検討を行つていた。未熟児センターでの哺育、治療は、担当小児科医師の判断で行うが、各処置については毎日野呂医師に報告し、野呂医師の定期回診の所見を合わせ考慮して、診療方針を決定する体制をとつていた。

被控訴人病院眼科には光凝固装置はなかつたが、被控訴人病院の本院である大学付属病院眼科(以下「本院」という。)では、塚原勇教授をはじめとする研究スタッフが、本症治療法として光凝固法の研究開発中であつて、西ドイツツアイス社の光凝固装置を備えており、このため、眼科は、右塚原教授の教室から二名の医局員の応援をえて診療にあたるなど常に連絡をとり、斎藤医師が眼底検査結果を検討のうえ、光凝固が必要と判断したときには、本院に移送する体制がとられていた。

2被控訴人病院産科及び小児科での経過

(一)  控訴人香織は、その分娩予定日は昭和四八年八月五日であつたが、これより約五〇日早い同年六月一五日午前九時、被控訴人病院産婦人科において出生した。同児の出生当時、母である控訴人末子(年齢二三歳)は辺縁性前置胎盤のため胎盤剥離による多量の出血があり、ショック状態であった。控訴人香織は、在胎週三三週(終経から三一週一日)、生下時体重一〇〇〇グラム(未熟児センター入院時九七〇グラム)、身長36.5センチメートル、胸囲27.5センチメートルの早産、低体重出生児で、いわゆる極小未熟児であつた。同香織の出生時の全身状態は、新生児の状態を示すアプガールスコアが一〇点(満点で完全)、レストラクションスコア二点(軽度の呼吸窮迫、一〇点が最悪)、呼吸数は毎分四八ないし六〇回、チアノーゼ(+)、黄疸(−)で、特に重篤な状態ではなかつた。しかし、産婦人科主治医の訴外岡野順子医師(岡野医師)は、香織が低体重出生児であり、その一般状態から、これにつき体重測定とエコリシン液点眼の必要最少限の措置をとつたが沐浴など他の負担をかけず、直ちに香織を産婦人科新生児室内の哺育器に収容し、室温三二度、湿度九〇パーセントの状態で、毎分一リットルの割合の酸素を投与し、更に、同児がその一般状態からして呼吸障害をおこすのではないかと懸念し、被控訴人病院内の未熟児センターに入院連絡をとつた(もつとも、同児の状態につき連絡簿による報告はしていない。)。

(二)  控訴人香織は、同日(生後一日)午後二時、被控訴人病院未熟児センターに入院し、同病院小児科伊吹医師の担当により未熟児保育を受けることになつた。

同児の入院時の状態は、次のとおりであつた。身体が小さい割に比較的よく運動をするが、啼泣は弱い。心音は正常で、脈搏は規則正しい。呼吸は毎分四三回で不規則であり、呼吸状態を示すシルバーマン陥凹呼吸指数は二点(正常値〇点)で、胸部の呼吸音は聴取されるが一様に微弱であり呼吸が十分にできていない。頭髪は薄く、皮膚は赤色調を帯び、口唇、四肢にチアノーゼが認められる。吸啜反射はなく、モロー反射も僅かに認められる(+−)。被控訴人大学の松村教授の考案にかかる新生児の成熟度点数は九ないし一〇点(三〇点満点)で状態は相当悪かつた。

また、胸部レントゲン単純撮影によると、右下肺野が不鮮明で網状様を呈さず、肺の発達が未熟と認められ、血糖値は一八ミリグラム(一デシリットル当り……以下同じ。正常値五〇ないし一〇〇ミリグラム)、動脈血ガス分析によるとPH7.32(正常値7.4位)、血中酸素濃度(PaO2)四九mmHg(正常値九〇mmHg)、血中二酸化炭素濃度(PaCO2……以下「PaCO2」という。)四五mmHg(正常値四〇mmHg)、体温三五度との検査結果がえられた(後、34.7ないし34.9度)。同カルテには、望みはあるが、何といつても体が小さすぎるとの検査結果がでている。

伊吹医師は、同児が未熟児センターに入院後、直ちに同児を保育器に収容し、担当看護婦に、保育器内を温度三二度、湿度九五ないし一〇〇パーセントに保ち、体温の発散を防ぐためフード、反射盤を使用し、酸素を毎分二リットル投与するよう指示したが、その後PaO2の数値が低いとの検査結果がえられ、呼吸数が毎分六〇回(新生児は三〇回が正常)となり呻吟がみられたため、呼吸障害をおこし、低酸素症による脳障害がおこることを懸念し、同日午後九時、酸素を毎分四リットルに増量し、保育器内酸素濃度を四〇パーセントとするように指示した。(なお、被控訴人病院では酸素濃度を測定器で最低一日三回測定するよう、看護婦に指示されていた。)また、栄養補給及び酸血症防止等のため、一〇パーセントブドウ糖、メイロン(重炭酸ソーダ)、ニコリンの臍点滴を開始した(以後、同月二三日まで継続した。)。伊吹医師は、午後九時ころから、香織の呼吸状態が悪化したため、被控訴人病院中央検査科に連絡し、翌一六日に動脈血ガス分析を施行してもらうように依頼した。

伊吹医師は、香織が状態のよくない極小未熟児であることから、右一五日、控訴人豊實と面会し、控訴人香織が成熟度九ないし一〇点の極小未熟児であつて状態が悪く酸素の投与をせざるをえないこと、眼科に十分な治療を依頼して連絡をとるが、それでも本症出現の可能性があること、極小未熟児は、特発性呼吸窮迫症候群を起こしやすく、生命の危険が高いこと、生命が助つても、脳性麻痺による精神障害や酸素投与が一因となり本症による障害を残すことがあること、児は比較的元気に運動しており望みがあるので期待してほしいこと、入院期間は三か月を覚悟してほしいこと等の説明を行い、以後も随時、控訴人豊實、同末子に症状説明をした。

(三)  同月一六日(生後二日)。呼吸は不規則で、呼吸数は一日三回の計測によれば毎分四〇ないし六四回、陥凹呼吸が若干あるが、呻吟は認められず、シルバーマン陥凹呼吸点数一ないし二点であつた。皮膚色は赤色調を帯びるも比較的良好で、チアノーゼの状態は前日に比し増強せず、血糖値は五三ミリグラムに上昇し、動脈血ガス分析によれば、PH7.40、PaO2六八mmHg、PaCO2四二mmHg、体温は35.2ないし35.7度であつた。

そこで、伊吹医師は、酸素濃度を四〇パーセントに保つても、血中酸素濃度が意図したほど上昇せず、当時本症発生の危険域と考えていた一〇〇mmHgに達していないこと、チアノーゼが残つていることから、低酸素症による脳性麻痺を危惧し、毎分四リットルの酸素を投与するのが相当と判断した。

酸素は毎分四リットル投与し(以後同年七月一日まで毎分四リットル投与を続けた。)、酸素濃度は三七ないし四〇パーセントに保ち(ただし、四〇パーセントにするため一時的に毎分五リットルに増量したことがあつた。)、臍点滴は、PHが正常値になつたためメイロンを抜いた。

(四)  同月一六日(生後三日)。呼吸は不規則で、呼吸数は毎分五〇ないし五六回(ただし、六四回にふえたことがある。)、陥凹呼吸が若干認められ(シルバーマン陥凹呼吸点数二点)、胸部聴診によれば副雑音はなく、呼吸音は末梢まで聴取できた。低体温(35.0ないし35.2度)が続き、チアノーゼがあるほか、黄疸の発現をみ、モロー反射は認められず、全身状態は比較的良好であつた。

酸素濃度は三〇ないし三二パーセントに保ち、鼻腔カテーテルによるミルク注入を開始した(同年八月二日まで継続する。)。

(五)  同月一八日(生後四日)。呼吸は不規則で、毎分三八ないし五二回、呻吟がなくなつてきた。皮膚色は中等度に良好であるが、低体温(最低34.2度)は続き、クベース内温度調節をするも冷感があり、口周囲、四肢末端にチアノーゼがあり、黄疸も少し認められた。モロー反射が時として見られた。動脈血ガス分析によれば、PH7.44、PaO2七一mmHg、PaCO2三四mmHgであつた。同日の体重は九九〇グラム。

伊吹医師は、PaO2が新生児の正常域に達したため、酸素濃度を三〇パーセントに下げるように指示し、同日の酸素濃度は、二八ないし三五パーセントであつた。臍点滴内よりニコリンを抜いたため、この日より点滴は一〇パーセントブドウ糖のみとなつた。

伊吹医師は、ガス分析のために採血した鼠径部の出血が、同日午後四時一〇分から同五時頃まで続いたため、動脈血採血が控訴人香織に与える侵襲が大きく、感染のおそれもあるため、以後、ガス分析による血中酸素濃度の測定を行わず、酸素投与は、保育器の酸素濃度及び同原告の全身所見によつて判断することにした。

(六)  同月一九日(生後五日)。呼吸はシーソー様で、毎分四八ないし六四回、胸部の呼吸音は微弱であり、シルバーマン陥凹点数一ないし二点であつた。皮膚は赤色調で口周囲、四肢末端にチアノーゼがみられ、顔面、頭部、外陰部にかなりの浮腫(+++……スリープラス)が存した。モロー反射がみられた。血糖値は七二ミリグラム、体温は34.5ないし35.9度。

酸素濃度は三〇ないし三五パーセント。臍点滴を五パーセントブドウ糖とした(同月二三日に中止されるまで同様)。

(七)  同月二〇日(生後六日)。呼吸数は毎分四〇ないし五六回、口周囲、四肢末端にチアノーゼがみられ、皮膚色が不良であるが、四肢運動は活発であつた。他に特変なし。野呂医師が回診した。体温は35.8度ないし36.1度。

酸素濃度は三〇ないし三四パーセント。

(八)  同月二一日(生後七日)。呼吸数は毎分四八ないし五六回、低体温が続く(34.2ないし34.8度)。皮膚黄染があり黄疸の最高値としてビリルビン一デシリットル当り10.9ミリグラムを示した。体重九五〇グラム。

酸素濃度は二八ないし三二パーセント。

(九)  同月二二日(生後八日)。呼吸は安らかで、毎分四〇ないし五四回、呼吸音にも異常がないが、依然低体温(34.2ないし34.8度)であつた。口周囲、足底部に軽度のチアノーゼがみられるが、皮膚色は良好で、四肢運動も活発であつた。

酸素濃度は二八ないし三二パーセント。

(一〇)  同月二三日(生後九日)。呼吸はややシーソー様で、毎分四八ないし六〇回、呼吸音は微弱であり、依然低体温(34.3ないし36.1度)であつた。チアノーゼが口、四肢未端にみられ、全身の皮膚色はやや不良、モロー反射(+)であつた。

酸素濃度は二九ないし三二パーセント。臍点滴期間が一週間となり、黄疸もややひいたため、同日限りで臍点滴を中止した。

(一一)  同月二四日(生後一〇日)。呼吸数は毎分四八ないし五八回、チアノーゼが口、四肢末端にみられ、啼泣は弱く、四肢運動も不活発であつた。体温34.9ないし36.1度。

酸素濃度は二八ないし三六パーセント。

(一二)  同月二五日(生後一一日)。浮腫はとれ、呼吸は不規則的でなく、毎分五二ないし六六回、呼吸音は微弱であつた。シーソー呼吸があり、シルバーマン陥凹点数一点、チアノーゼが口、四肢未端にみられた。体重九二五グラム。体温は35.5ないし36.6度。

酸素濃度は二六ないし三三パーセント。

(一三)  同月二六日(生後一二日)。午後六時四五分、ミルク注入後無呼吸発作をおこし、全身チアノーゼとなつたが、胸部を刺激し、酸素を増量すると回復した。チアノーゼが口、四肢未端に残り、元気がない。同日の呼吸数は毎分四八ないし五六回。体温は35.5ないし36度。

酸素濃度三一ないし三五パーセント。

(一四)  同月二七日(生後一三日)。呼吸は安らかで、毎分五四ないし六二回、低体温(35.0ないし35.8度)が続き、皮膚色は赤色調で、チアノーゼが若干みられた。全身状態は良好であるが、運動は不活発で、泣声も弱々しい。

酸素濃度は二七ないし三八パーセント。

(一五)  同月二八日(生後一四日)。呼吸は安らかで、毎分四八ないし五二回、皮膚色は然程赤くなく、運動は不活発であつた。体重九五〇グラム。モロー反射(+)。

酸素濃度二七ないし三一パーセント。

(一六)  同月二九日(生後一五日)。呼吸数毎分五六ないし六〇回、呼吸音は微弱、皮膚色はやや良好となつたが、口唇および爪甲にチアノーゼがみられた。啼泣がほとんどみられず、モロー反射が活発にみられた。体温35.5ないし36.3度。

酸素濃度は二五ないし三二パーセント。

(一七)  同月三〇日(生後一六日)。呼吸は不規則で、毎分四八ないし五〇回、全身色がすぐれず、四肢、口唇にチアノーゼがみられるが、四肢運動は活発であつた。体温35.7ないし36.2度。

酸素濃度は二九ないし三一パーセント。

(一八)  七月一日(生後一七日)。呼吸は毎分四八ないし五六回。体温35.8なかいし36.8度。黄疸が消失したほかは、前日とほぼ同様の状態であつた。

酸素濃度は二七ないし三五パーセント。

(一九)  七月二日(生後一八日)。呼吸数毎分四六ないし四八回(不規則なことがある。)体温は35.9ないし37.5度。体重は一〇二〇グラムとなり生下時体重にまで回復した。

伊吹医師は、生下時体重まで回復し、低体温が解消したので、酸素投与を毎分二リットルに減量するように指示し(以後同月二二日まで毎分二リットルを投与した。)、翌三日に眼底検査を受けたい旨眼科へ連絡した。

酸素濃度は二六ないし三〇パーセント。

(二〇)  同月三日(生後一九日)。呼吸は促迫気味で不規則であり、毎分五六ないし六〇回と増加傾向を示し、皮膚色は然程よくないが、四肢運動は比較的活発であつた。

酸素濃度は二五ないし三〇パーセント。第一回目の眼底検査を受けた。眼科からの通知として、未熟眼底、右動脈残遺、左不詳とある。また、伊吹医師は、控訴人末子に対し、経過は比較的良好で生命の危険がないとし、一応安心してよいと話した。

(二一)  同月四日(生後二〇日)。呼吸シーソー様であり、毎分四二ないし五六回、皮膚色は良好であり、四肢運動も活発であつた。

酸素濃度二八ないし三九パーセント。

(二二)  同月五日(生後二一日)。呼吸はやや不規則で、毎分四四ないし五二回、四肢運動は、活発であつた。体重一〇七〇グラム。

酸素濃度二三ないし二六パーセント。

(二三)  同月六日(生後二二日)。呼吸は不規則でシーソー様であるが呼吸困難はなく、毎分三六ないし四四回で、皮膚は良好で、比較的活発な四肢運動が観察された。体温35.2ないし36.2度。

酸素濃度二三ないし三一パーセント。

(二四)  同月七日(生後二三日)。呼吸は不規則で毎分四八ないし五二回。特変なし。体温は三六度前後、以後体温は三六度を下らない状態が続く。

酸素濃度二二ないし二九パーセント。

(二五)  同月八日(生後二四日)。呼吸は不規則で、毎分四〇ないし五〇回。特変なし。

酸素濃度は二六ないし二九パーセント。

(二六)  同月九日(生後二五日)。呼吸はシーソー様で、毎分四二ないし五二回、呼吸困難はみられなかつた。体重一一五〇グラム。眼科からの通知では未熟眼底とされている。

酸素濃度は二八ないし三〇パーセント。

(二七)  同月一〇日(生後二六日)。呼吸は不規則で、毎分三六ないし五八回。

酸素濃度は二六ないし三一パーセント。眼底検査を受けた。

(二八)  同月一一日(生後二七日)。呼吸不規則で、毎分四二ないし五六回。

酸素濃度は二六パーセント。

(二九)  同月一二日(生後二八日)。呼吸は不規則ではあるが安らかで、毎分四八ないし五八回。皮膚色は然程よくなく貧血をうかがわせるが、チアノーゼはみられず、四肢運動、啼泣は比較的活発であつた。体重一二四〇グラム。

酸素濃度は二三ないし二七パーセント。

(三〇)  同月一三日(生後二九日)から同月一九日(生後三五日)までは、呼吸は不規則であるが、他に特変は認められなかつた。

呼吸数は、同月一三日毎分三二ないし四八回、同一四日毎分四六ないし四八回、同一五日毎分四四ないし五八回、同一六日毎分三四ないし五〇回、同一七日毎分三八ないし五六回、同一八日毎分四四ないし五〇回、同一九日毎分四〇ないし五二回であつた。

酸素濃度は、同月一三日二五ないし三〇パーセント、同一四日二四ないし二七パーセント、同一五日二五ないし二六パーセント、同一六日二三ないし二七パーセント、同一七日二四ないし二六パーセント、同一八日二二ないし二三パーセント、同一九日二四ないし三〇パーセントであつた。

体重は、同月一六日一二八五グラム、同一九日一三二〇グラムであつた。

同月一七日(生後三三日)、眼底検査を受け、斎藤医師から網膜周辺部に混濁出現、浮腫(一)、血管蛇行出現、本症(オーエンスI期)、両眼にA・T(アトロビン)点滴との通知があつた。伊吹医師は、本症の可能性は強いと思つたが、直ちに処置をする必要を認めなかつた。

同月一八日、伊吹医師は、控訴人末子に面会し、経過は比較的良好であると症状説明をした。

(三一)  同月二〇日(生後三六日)。呼吸は比較的良好であり、毎分四〇ないし四六回、皮膚色は然程よくないが、チアノーゼはみられず、一般状態は良好で活発な四肢運動がみられた。

酸素濃度は二六ないし二八パーセント。体重一三二〇グラム。

(三二)  同月二一日(生後三七日)から二三日(生後三九日)までは、呼吸がやや不規則であるが、特に変化はみられなかつた。

呼吸数は、同月二一日毎分三六ないし五〇回、同二二日毎分四四ないし五六回、同二三日毎分三二ないし四四回であつた。

酸素濃度は、同月二一日二五ないし二七パーセント、同二二日二四ないし二八パーセント、同二三日二六ないし三〇パーセントであつた。

(三三)  同月二四日(生後四〇日)。呼吸困難はみられず、毎分三〇ないし四六回で、皮膚色は然程よくないが、チアノーゼはみられない。血液検査によると、赤血球一立方ミリメートル当り二七〇万、血色素量一デシリットル当り8.7グラムであつた。

体重は一四四〇グラムとなり呼吸状態がよくなつてきたので酸素投与の段階的打切準備として、毎分一リットルに減量された。

酸素濃度は二六ないし二九パーセント。眼底検査を受け、眼科から、血管怒張、蛇行をみとめ、網膜混濁は消失と通知された。

(三四)  同月二五日(生後四一日)。呼吸は安らかで毎分二八ないし四五回、皮膚色は正常で運動も活発となつた。

酸素濃度は二四ないし三二パーセント。

(三五)  同月二六日(生後四二日)。呼吸数毎分三四ないし四〇回。体重が一四六〇グラム。

伊吹医師は、体重が順調に増加し、極小未熟児の体重域を脱し、呼吸数も四〇台に安定し、無呼吸発作もみられないことから、同日午後六時酸素投与が中止された。眼科から、右二六日までの間、香織につき本症が致命的状態であるとの報告もなく、酸素投与の中止についての指示もなかつた。

(三六)  同月二六日に酸素投与を中止してからの控訴人香織の状態は、多呼吸と低体温がみられ、同年八月二二日(生後六九日)頃まで呼吸がやや不規則であつたが、その後は規則的となり、皮膚色は多少貧血様であるが正常で、全身状態は良好であつて、体重も増加し、九月一二日(生後九〇日)に保育器からコットに移し、香織は同年一〇月三〇日(生後一三八日)退院した。七月二七日以降の状態及び治療の経過は次のとおりであつた。

(1) 呼吸数は、同月二七日毎分四八ないし六〇回(以下、一分当りの呼吸数を示す。)、同二八日四二ないし五八回、同二九日四八ないし五二回、同三〇日五〇ないし五六回、三一日五二ないし六八回、八月一日四二ないし六八回、同二日四〇ないし四八回、同三日四八ないし五六回、同四日四二ないし五二回、同五日五〇ないし六六回、同六日六〇ないし七二回、同七日四八ないし五八回、同八日五二ないし六〇回、同九日五二ないし六〇回、同一〇日四〇ないし四八回、同一一日三四ないし四四回、同一二日四〇ないし五二回、同一三日四〇ないし四八回、同一四日四〇ないし四四回、同一五日四八ないし六六回、同一六日四二ないし四六回、同一七日四八ないし五六回、同一八日四〇ないし四六回、同一九日四六ないし五二回、同二〇日四四ないし五二回、同二一日四〇ないし七〇回、同二二日四〇ないし五六回、同二三日四〇ないし四四回、同二四日四四ないし五二回、同二五日四〇ないし五二回、同二六日四二回であり、同二六日に測定を中止した。

(2) 体重は、七月三〇日一五六〇グラム(極小未熟児の体重を脱する。)八月二日一六三〇グラム、同六日一六六〇グラム、同一四日一七四〇グラム、同一六日一八〇〇グラム、同二〇日一八六〇グラム、同二三日一九〇〇グラム、同二七日一九六〇グラム、同三〇日二〇〇〇グラム、九月三日二一〇〇グラム、同六日二一四〇グラム、同一〇日二二四〇グラム、同一三日二三四〇グラム、同一七日二四六〇グラム、同二〇日二五一〇グラム、同二四日二五九〇グラム3同二七日二七〇〇グラム、一〇月一日二七九〇グラム、同四日二八五〇グラム、同八日三〇〇〇グラム、同一一日三〇九〇グラム、同一五日三一八〇グラム、同一八日三二七〇グラム、同二二日三四〇〇グラム、同二五日三五三〇グラム、同二九日三六三〇グラム、同三〇日(退院時)三六八〇グラムであつた。

(3) 血液一般検査の結果は、八月一五日赤血球数二八〇万(一立方ミリメートル当り……以下同じ。)、血色素量8.6グラム(一デシリットル当り……以下同じ。)、白血球数一一八〇〇(一立方ミリメートル当り……以下同じ。)、同二三日赤血球数三一〇万、血色素量9.7グラム、白血球数六三五〇、同三一日赤血球数三五二万、血色素量10.9グラム、白血球数一三四五〇、九月一三日赤血球数三八七万、血色素量11.5グラム、白血球数一〇二〇〇、一〇月八日赤血球数四〇五万、血色素量12.2グラム、白血球数八九五〇、同二二日赤血球数四六二万、血色素量10.9グラム、白血球数八八〇〇、同三〇日(退院時)赤血球数四一六万、血色素量12.2グラム、白血球数八二〇〇であつた。

(4) 伊吹医師は、七月二一日の血液一般検査の結果、赤血球数、血色素量の数値が低く貧血がみられたため、経過観察の後、同三〇日より造血剤の投与を開始した。造血剤の投与は、七月三〇日、八月四日、同一四日(以上、マスチゲンB12)、同一八早、同二九日、九月三日、一〇月一三日、同二七日(以上、カロマイド)に行つた。

(5) 伊吹医師は、控訴人香織に入院直後から酸素投与を続けてきたため、本症発症を懸念し、既に、七月三日から、被控訴人病院眼科医の斎藤医師に連絡をとつて、眼底検査を依頼し、逐一検査結果の報告を受けていたが、酸素投与中止後も引き続き眼底検査を依頼し検査結果の報告を受けるとともに(眼底検査受検の状況は、後記認定のとおりである。)、斎藤医師の指示により、本症の防止並びに治療のため、控訴人香織に対し、次のとおり薬物療法を行つた。

伊吹医師は、既に、七月一七日、斎藤医師から前示のような報告を受けていたが、七月三一日、更に斎藤医師から眼底周辺部に軽度の浮腫がみられるので、本症に対する薬物療法をするよう指示されたため、野呂医師と検討のうえ、その指示に従い、浮腫吸収をはかるため副腎皮質ホルモン(ブレンドニン二ミリグラム)、末梢血管の拡大をはかるためビタミンE(ユベラ0.5ミリグラム)を各投与し、以後、八月七日、同一四日、同一八日、同二九日、九月三日、同一〇日、同一七日、同二〇日、同二一日、同三〇日、一〇月七日、同八日、同一三日、同二〇日、同二七日に右各薬剤を投与した。また、経口投薬以上の効果をはかるため、八月九日から副腎皮質ホルモン(リンデロン、デカドロン)の結膜下注射も開始し、以後、同一一日、同一四日、同一六日、同一八日、同二一日、同二三日、同二五日、同三〇日、九月一日、同六日、同八日、同一一日、同二一日、同二五日、一〇月八日に行つた。

斎藤医師は、八月九日、香織の左眼眼底に出血を発見し、未熟児センターへ止血剤の投与を依頼したが、伊吹、野呂両医師は、香織にそれまで出血性傾向がなく、突然の眼底出血で従来経験したことのない症例であるとして、検討した結果、眼底出血、鼻出血等の対策として、同一一日止血剤(トランスアミン三cc)を投与し、同一四日にも再投与した。

(6) 九月四日、斎藤医師から控訴人香織の両眼の状態が思わしくないとの連絡を受けたため、伊吹医師は、同日控訴人末子に対し、同香織の内科的な状態は然程問題ないが、両眼失明の可能性がある旨説明をした。

3眼科の臨床経過(眼底検査結果)

(一)  被控訴人病院では、前示のとおり、新生児は原則として生後一週間目に眼底検査を受ける体制をとつており、新生児の全身状態、とくに心臓の状態が思わしくない場合には、担当小児科医師の判断で受検時期を遅らせることがあつたところ、控訴人香織は生下時体重一〇〇〇グラム(未熟児センター入院時九七〇グラム)の極小未熟児であつたため、伊吹医師は、生後一週間目に受検させず、全身状態が良好となつてきた、七月二日(生後一八日)、眼科に眼底検査を依頼した。

なお、これを受けた眼科の斎藤医師は、成書に従い、混濁が消失する一週間間隔を基準として眼底検査を実施(混濁が残つている場合は眼底不詳と表現)するが、二回目以降は、一般状態により小児科医が主導する場合を除き、眼科医の判断でその眼底検査の指示をすることとしていた。

(二)  七月三日(生後一九日)。斎藤医師は、検査依頼に応じ控訴人香織の第一回目の眼底検査を、同児が哺育器内にある状態で行つた。眼底検査には、京大式倒像検眼鏡を使用し、眼底周辺を詳細に検眼する際には、更に直像検眼鏡を使用した(以後の眼底検査も同様の方法により、各検査結果は、香織の退院まで検査終了後、小児科へ、通知用紙または口頭で連絡した。)。

香織の外眼部(目の位置、涙管、涙嚢、眼瞼、眼膜、前眼房、瞳孔、虹彩、水晶体)はいずれも正常であつた。右眼は、硝子動脈遺残がある非常に未熟な状態であり、左眼は硝子体が混濁し、眼底の透見が不能(不詳、以下同じ。)であり、斎藤医師はその旨小児科へ通知した。斎藤医師は、本症が発症しても自然寛解することが多く、光凝固の実施はオーエンスⅡ期又はⅢ期が適期と考えていた。

(三)  同月一〇日(生後二六日)。右眼は乳頭部は蒼白でソラマメ型を呈し(正常乳頭はオレンジ色で円型を呈する。)、動脈、静脈とも狭細で蛇行しており、網膜に混濁はなく中心窩反射がわずかに認められ(+、−)、典型的な未熟眼底の所見を示していた。左眼は前回と同様に透見不能であつた。斎藤医師は、網膜周辺部混濁(+)、浮腫(−)、AT点滴とし、小児科へ未熟眼底である旨の通知をした。

(四)  同月一七日(生後三三日)。斎藤医師は、散瞳と炎症予防のためアトロビンの点滴を行つたが、香織の両眼とも中間透光体とくに水晶体に混濁はないが、硝子体には混濁がみられ、血管の蛇行が出現し、これが増強してきていたが、浮腫は認められなかつた。そこで、斎藤医師は、本症のオーエンスⅠ期に移行する可能性が強いと判断し、小児科へはこれを警告する意味で、右症状のほか、本症Ⅰ期と括弧書きして通知し、更に、口頭でもこの旨連絡した。

(五)  同月二四日(生後四〇日)。両眼とも血管に怒張蛇行をみとめるが、網膜周辺部に浮腫はみとめられず、網膜の混濁は消失し、その旨小児科へ通知した。

(六)  同月三一日(生後四七日)。両眼とも硝子体に幾分かの混濁が残つていたが、水晶体に異常はなく透見可能であり、血管の怒張蛇行があり、網膜周辺部に軽微な浮腫(+−)がみられた。しかし、無血管帯と血管帯との鏡界線(デイマケーションライン)は、認められなかつた。斎藤医師は、とくに浮腫が本症の先駆症状であることから、これを本症のごく初期と考えたが、自然寛解する場合も多いので経過観察することにし、小児科へ右症状を通知し(眼底スケッチを送つた。)、症状の急変にそなえて浮腫(+−)を吸収し、新生血管の増殖を防止するために副腎ホルモン(プレドニン)、血管の拡張から網膜の新陳代謝ないし血行をよくするためビタミンE剤(ユベラ)の併用を指示した。

(七)  八月四日(生後五一日)。斎藤医師は、昭和四五年頃の訴外堀川幸子の症例から、本症が急激に進行した事例を経験したことがあつたので、七月三一日に網膜周辺部に浮腫(+−)が認められた所見に注目し、定期的眼底検査日である同月七日をまたずに検査したが、両眼とも前回と同様の状態で変化は認められなかつた。

(八)  同月七日(生後五四日)。右眼は水晶体には異常はないが、水晶体の後部に混濁があり、眼底が真白になつて透見できなかつたので、斎藤医師は、その原因不明のまま、硝子体混濁であるため、右眼についてはこの状態である限り光凝固の実施は不能であるの判断した。同医師は、本症が両眼に進行することのあることを考慮して、左眼については特に慎重に検査のところ、左眼乳頭部の境界は鮮明で、オレンジ色よりやや蒼白気味であるが色調も正常であつた。また、血管の怒張蛇行がややみられるが(+−)、前回より程度は軽くなり、網膜周辺部の浮腫、血管新生は認められないが、前回と同様若干の混濁がみられた。斎藤医師は、以上の観点から、左眼について敢えてオーエンスⅠ期に入つた段階と判断した。

同日、斎藤医師は、本院の本症研究スタッフの一員である福地助教授に、香織の症例を伝え、光凝固法を依頼することがあるかもしれない旨電話連絡した。

(九)  同月九日(生後五六日)。斎藤医師は、前回香織の右眼に生じた不測の状況から、この日も特に診察することとし、同児の検査をしたところ、右眼は前回と同様に透見不能であり、左眼については赤く混濁し(反射光による)、眼底がほとんど透見不能の状態となつた。そこで、硝子体が、原因が不明であるが眼底出血により混濁しているものと考え、同出血部位を確認しようと詳細な検査を試みたが、網膜周辺部の静脈が一部透見できただけであつた。同医師は、左眼について、血液による混濁がある限り光凝固の実施は不可能であると判断し、小児科へ右結果を口頭で通知し、止血剤の投与を指示した。

(一〇)  同月一〇日(生後五七日)。斎藤医師は前回の検査の結果、大きな異常が認められたので、また出血持続の有無を確認するため、同日も検査した。合わせて、眼圧測定をしたが、正常値であり、左眼の出血は一応とまつたと判断された。右眼は前回と同様に透見不能であり、左眼は硝子体中に血液が入り混濁が強く、ほとんど透見不能であり、硝子体中央に血液の凝固が認められるほかは、網膜周辺部の静脈がかろうじて判断できる程度であつた。

(一一)  同月一四日(生後六一日)。右眼は依然透見不能であつた。左眼も硝子体が出血による混濁のため透見不能であつた。斎藤医師は、小児科へ止血剤の投薬を指示した。

(一二)  同月二一日(生後六八日)。右眼は依然透見不能であつたが、左眼はようやく出血が吸収され、はじめて混濁が薄らぎ、いまだ充分とはいえないまでも乳頭部、網膜血管の透見が可能になつてきた。

(一三)  同月二三日(生後七〇日)。右眼は透見不能、左眼は、依然出血の影響で透見が困難であつたが、時間をかけ、同児が啼泣して時に血塊が動く合間を縫つて観察したところ、破れたと思われる血管が透見された。乳頭より耳側部に索引乳頭と思われる所見がうかがわれるが、硝子体の混濁のため十分確認できなかつた。また、網膜周辺部には、血液がたまつており、変化を十分観察することができなかつた。更に、眼底後極部の黄班部に血液の塊があり、この部分の観察は不可能であつた。

(一四)  同月二五日(生後七二日)。右眼は透見不能、左眼は血液がやや吸収されたが特別の変化はなかつた。

(一五)  同月二八日(生後七五日)。右眼は透見不能、左眼は血液が吸収され、血管状態は耳側周辺部は透見不能であつたが、鼻側は前回に比べやや鮮明に透見でき、動脈の蛇行が著明で、静脈の蛇行は軽度であつた。

(一六)  九月四日(生後八二日)。右眼は透見不能、左眼の黄斑部周辺の血液が吸収され、視神経乳頭部から黄斑部にかけて透見可能となつたが、牽引乳頭、索状網膜剥離が著明であり、鼻側に軽度の浮腫がみられたオーエンス瘢痕三度と考えられた。しかし、黄斑部付近の所見がまだ十分に確認できなかつたが、他の所見より黄斑部まで索状網膜剥離が進行していると推測され、斎藤医師は、光凝固はもはや実施不可能かつ無効と判断し、香織の失明はほぼ確実になつたとして、その旨、伊吹医師に連絡した。ただし、斎藤医師は、左眼黄斑部の所見が不明である以上、失明の断定はしなかつた。

(一七)同月一〇日(生後八八日)。同一八日(生後九六日)。両眼の状態に変化がなかつた。

(一八)  同月二五日(生後一〇三日)。右眼は透見不能、左眼に強い混濁がみられた。

(一九)  一〇月二日(生後一一〇日)。右眼は透見不能、左眼は強い混濁がみられた。副腎皮質ホルモン(デカドロン)の結膜下注射の中止を指示した。

(二〇)  同月九日(生後一一七日)。右眼は透見不能(眼底不詳)だが眼圧正常。左眼の浮腫は吸収されたが、その他の所見は不変であつた。

(二一)  同月一五日(生後一二三日)。右眼は透見不能、左眼は、広範囲に軽度の浮腫(+−)がみられ、瘢痕部も生じており、オーエンスⅤ期と判断された。視力回復の可能性はないが、明暗に対して反応するので薬物投与(ビタミンE剤 ヨーレチン)をした。

(二二)  同月二三日(生後一三〇日)。同三〇日(生後一三八日)。右眼は透見不能であり、やや眼球に萎縮を呈してきた。左眼は浮腫が消失し、網膜剥離の懸念がなくなつた。左眼にも萎縮の傾向がみられる。周辺部を十分に透見できないが、一部瘢痕化しているものの、全体には及んでいなかつた。

(二三)  一一月八日(生後一四七日)。斎藤医師は、未熟児網膜症後遺症と診断した。

(二四)  一一月一五日、同二九日、一二月二〇日、昭和四九年一月一一日、両眼に特別の変化がなかつた。(ただし、一一月二九日より左眼眼底中心部がはつきり見えるようになつた。)

(二五)  同四九年一月二四日。右眼は硝子体線維増殖のため透見不能であつた。左眼は、周辺部より線維増殖が認められ、黄斑部付近の網膜は非常に反射が暗く、視神経の萎縮が認められた。

(二六)  四月二〇日。左眼に水晶体の亜脱臼ないし水晶体消失が認められた。

三  未熟児網膜症医療の現状

〈証拠、及び〉原審における鑑定(湖崎鑑定)の結果を総合すると次の事実が認められ〈る。〉

1本症発症の原因

(一)  本症の発症

本症は、生下時体重が一五〇〇グラム以下、在胎週三二週以下の極小未熟児(低体重出生児)につき、同児の網膜血管の特異性に基づき酸素投与を原因として発症することが多いが、自然寛解する例が多く(約八五パーセント)、特発性呼吸症候群等の呼吸障害のある事例、全身状態の悪い例にも本症が発生しやすく、予後も不良とされる。また、本症の多くは両眼性であるが、同じ濃度であつても、必ずしも両眼に同程度の障害をおこすとは限らない。

(二)  本症の原因

本症は、未熟児の網膜血管の未熟性を素因とし、酸素投与を原因として発生する非炎症性の病変であり、その発生機序は必ずしも明らかでないが、児の胎外環境下網膜の虚血状態により誘発される新生網膜血管の異常な増殖性変化と、その血管による網膜の牽引剥離が特徴的である。そして、右血管の発育の程度や、酸素に対する反応は個体差が大きく、その発生と進行は多種多様で個性的であり、酸素投与をしない未熟児にも、虚血状態からその発症をみる例があり、その発生機序はなお確定をみていない。

2本症の臨床経過と分類

本症の臨床経過は様々で、その分類も困難かつ多様であるが、これまで次のような分類が一般的な診断と治療の基準とされて来ている。

(一)  オーエンスの分類

オーエンスは、昭和三〇年頃、以下のような分類を確立していた。

(1) 活動期

ⅰ Ⅰ期(血管期) 網膜血管の迂曲怒張が特徴である。

ⅱ Ⅱ期(網膜期) 網膜周辺に浮腫、血管新生がみられ、ついで、硝子体混濁がはじまり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起、出血が出現する。

ⅲ Ⅲ期(初期増殖期)限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽がおこり、新生血管が硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こす。

ⅳ Ⅳ期(中等度増殖期)

ⅴ Ⅴ期(高度増殖期)本症が最も活発な時期であり、網膜全剥離を起したり、時には眼内に大量の出血を生じたり、硝子体腔をみたすのもある。

(2) 回復期

(3) 瘢痕期 程度に応じⅠないしⅤ度に分れる。

(二)  厚生省研究斑の分類

厚生省研究費補助金による昭和四九年度研究班は、「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」を発表した。

右は、光凝固法から未熟児を診療する傾向とこれによる診断、治療面での混乱に対する反省と、本症の治療適期、適応に関し、臨床例の蓄積から従前の分類では律しえないような急激に網膜剥離が進む型の存在が明らかになつたことに基づき、本症の診断、治療に関する統一的基準の設定が試みられたものである。これによれば、本症の活動期は、臨床経過、予後の点からⅠ、Ⅱ型に大別される。

(1) Ⅰ型

主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を呈し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるもので、自然治癒傾向の強いものである。次の四期に分類される。

ⅰ 1期(血管新生期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部に変化がないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

ⅱ 2期(境界線形成期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。

ⅲ 3期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡内に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。この3期を前期、中期、後期に分ける意見がある。

ⅳ 4期(網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から、全周剥離までの範囲にかかわらず、明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

なお、自然寛解は、Ⅰ型の場合、2期までで停止した場合には、視力に影響を及ぼすような不可逆変化を残すことはない。3期においても自然寛解はおこり、牽引乳頭に至らずに治癒するものがあるが、牽引乳頭、襞形成を残し、弱視となるもの、頻度は少いが剥離をおこし失明に至るものがある。

(2) Ⅱ型

主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、透光体混濁のために無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

なお、上記の分類のほかに、極めて少数であるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型ともいうべき型がある。

(三)  その後の検討と修正

昭和五七年度研究班の「未熟児網膜症の分類(厚生省未熟児網膜症診断基準、昭和四九年度報告)の再検討について」では、Ⅰ型、Ⅱ型についてもそれぞれ診断基準が修正され、混合型はなくなり、極めて少数の中間型があると改められている。その要点は次のとおりである。

Ⅰ型につき

1期(網膜内血管新生期)

周辺ことに耳側周辺部に発育が完成していない網膜先端部の分岐過多(異常分岐)、異常な怒張、蛇行、異常走行などが出現し、それより周辺部は明らかな無血管領域が存的する。後極部には変化が認められない。

3期 この時期は、初期、中期、後期の三段階に分れる。初期は極く僅かな硝子体への滲出、発芽を認めた場合、中期は明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた場合、後期は中期の所見に牽引性変化が加つた場合とする。

4期(部分的網膜剥離期)

3期の所見に加え、部分的網膜剥離の出現を認めた場合

5期(全網膜剥離期)

Ⅱ型について

主として極小低出生体重児の未熟性の強い眼におこり、赤道部より後極側の領域で、全周にわたり未発達の血管吻合及び走行異常、出血などがみられ、それより周辺は広い無血管領域が存在する。網膜血管は、血管の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的となる。進行とともに、網膜血管の蛇行怒張はますます著明になり、出血、滲出性変化が強くおこり、Ⅰ型のごとき緩徐な段階的経過をとることなく急速に網膜剥離へと進む。

なお、以上の分類のほかに、極めて少数であるが、Ⅰ、Ⅱ型の中間型がある。

Ⅰ型では、1期の網膜内血管新生が、生理的な範疇に入るものか病的かの区別は、よほど本症に経験のあるものでないとつきにくい。したがつて、発症率、自然治癒率を論じる場合は、2期以下の症例について行うこととする。

3本症の予防及びその早期発見

(一)  本症の予防方法

本症の発症が酸素投与と密接な関連を有することは明らかであり、その管理が徹底し、胎内環境と同様の酸素環境を設定できれば、或る程度予防することができるけれども、未熟児、特に極小未熟児は肺機能が未発達のため呼吸障害を伴うことが多く、低酸素症等により生命の危険や脳性麻痺をおこすおそれがあるため、「生命か、脳か、眼か。」のいわば二律背反の治療を要求され、酸素投与の管理に非常な困難を伴う。そして、酸素投与の適正量をみるためには、酸素が児の体内にとり入れられた後の動脈血の血中酸素分圧又は血中の酸素濃度の測定が重要であり、アメリカの小児科学会は、昭和四六年、血中酸素分圧(PaO2)を一〇〇mmHgを超えず、六〇ないし八〇mmHgの間に維持することができれば本症発症の予防効果が大きいとの勧告を出している。しかし、右基準によつても、本症の発症例があり、酸素投与の安全基準の確立はなく、山内逸郎は、昭和四九年、経皮的酸素分圧測定法を開発し、これにより、未熟児の血中酸素濃度が短期間(一時間)のうちでも大きく変動することが明らかとなり、従来の測定ではその変化を把握できず、検査効果に乏しいことが示されたが、右分圧測定法によつても、なお、それが間接的であるため正確なPaO2値がえられないこと等から実用化に至らず、侵襲による検査に限度のある動脈血測定により酸素療法を行うことを余儀なくされている。

(二)  早期発見の方法

定期的眼底検査については、本症の発症との関連で酸素濃度を軽減するなどしてこれを軽度なものにとどめる手段とされるほか、活動期症状の実態を把握し、適切な時期に光凝固法施行の決定に不可欠なものとされ、生後三週間までは、中間透光体の混濁によりこれが十分行えないのでこれが透明となる時期以降に経時的に眼底検査を実施し、その後は、一、二週間隔とするのが妥当とされるに至つている。

4本症の治療

(一)  治療法

本症の治療は、本疾患による視覚障害の発生を可及的に防止することを目的とするが、その治療には未解決の問題がなお多く残され、今日においても決定的な治療法を示すことは極めて困難であるが、進行性の本症活動期病変が適切な時期に行われる光凝固や冷凍凝固によつて治癒することが研究者の多くの経験から認められている。

これらの治療法は、周辺網膜の無血管附近の新生血管を凝固破壊することが目的であり、そのため凝固術の実施は、その対象部位を検眼鏡下で観察しながら凝固しなければならないので、混濁などによる透見不能な例では不可能である。

その治癒基準については、前示昭和四九年度厚生省研究班の報告によるものが、一般的に用いられている。同報告は、光凝固について、昭和五〇年当時における平均的治療方針であり、この治療方法が真に妥当なものであるか否かについては、今後の研究をまつて検討する必要があるとの留保を付し、一応の基準として次のように述べている。

(1) 治療の適応

Ⅰ型及びⅡ型における治療の適応方針には大差がある。

Ⅰ型においては、その臨床経過が比較的緩徐であり発症より段階的に進行する状態を検眼鏡的に追跡確認する時間的余裕があり、自然治癒傾向を示さない少数の重症例のみに撰択的に治療を施行すべきであるが、Ⅱ型においては、極小出生体重という全身条件に加えて、本症が異常な速度で進行するため、治療の適期判定や治療の施行そのものに困難を伴うことが多い。

したがつて、Ⅰ型においては、治療の不要な症例に行きすぎた治療を施さないよう慎重な配慮が必要であり、Ⅱ期においては、失明を防ぐため、治療時期を失しないよう適切な対策が望まれる。

(2) 治療時期

Ⅰ型の本症は、自然治癒傾向が強く、2期までの病期中に治癒すると、将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような瘢痕を残さないので、2期までの病期のものに治療を行う必要はない。3期において、更に進行の徴候がみられる時に始めて治療が問題となる。ただし、3期に入つたものでも、自然治癒する可能性は少なくないので、進行の徴候が明らかでないときは、治療に慎重であるべきである。

Ⅱ型は、血管新生期から突然網膜剥離をおこしてくることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失するおそれがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。Ⅱ型の本症は、極小低出生体重で未熟性の強い眼におこるので、このような条件をそなえた例では、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例で、血管新生と滲出性変化がおこり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候がみえた場合は、直ちに治療を行うべきである。

(3) 治療の方法

治療は、良好な全身管理のもとに行うのが望ましい。全身状態不良の際は生命の安全が治療に優先するのは当然である。

光凝固は、Ⅰ型においては、無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきではない。Ⅱ型においては、無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。

初回の治療後遺症状の軽快がみられない場合には、治療を繰り返すこともある。

(4) その他

なお、Ⅰ型における治療は、自然瘢痕による弱視発生の予防に重点が置かれているが、これは、今後光凝固治療例の視力予後や、自然治癒例にみられる網膜剥離のごとき晩期合併症に関する長期観察結果が判明するまでは適応に問題が残つている。

Ⅱ型においては、放置した際の失明防止のために早期治療を要することに疑義はないが、治療適期の判定、治療方法、治療を行うときの全身管理などについては、今後検討の余地が残されている。

混合型においては、治癒の適応、時期、方法をⅡ型に準じて行うことが多い。

副腎皮質ホルモンの効果については、全身的な面に及ぼす影響も含めて否定的な見解が大多数であつた。

(二)  治療法の評価

植村恭夫は、昭和五一年一一月、「光凝固は、現在Ⅰ型の一部にみられる進行例と、混合型に適応がしぼられてきているが、その奏効機序は不明であり、また、その有効性の判定は、今のところできていない。今後の厳密な有効性を定める研究が望まれる。Ⅱ型については、病態論的に考えてそれ以上に研究が望まれる。それまでは、少なくともⅠ型における安易な光凝固の施行は戒めるべきである。」とし、その後の研究によつても、光凝固はⅠ型について殆んどしなくてよい(自然治癒例にこれを行つた経過がある。)とし、Ⅱ型、混合型にこれを行つているが、照射が斑部に及ぶ危険があり、Ⅱ型につき光凝固の効果判定ができておらず、昭和五二年にできた厚生省研究班の目的も、Ⅱ型に対する治療効果の判定を目的とするものであつて、症例の集積が望まれるとしている。

清水弘一らは、昭和五二年宿題報告として、未熟児網膜症に関する光凝固につき、とくにⅠ型に対して治療を早めるにはよいが、根本的に網膜剥離を阻止するものではない。Ⅱ型、混合型に対しては、できうれば光凝固を施行したくない。有効な方法の確立するまで緊急避難的に残しておこうとしており、また、大島健司は、昭和五五年における証言として、光凝固を早期に行えばすべての症例が失明から救えるという考えは誤りであり、現に本症のⅡ型ないし混合型においては、いかに早期に光凝固法を施行しても、また、全身状態の劣悪ないし眼の条件が悪いためにこれを施行できない場合があり、必ず失明に至るもので、失明から救えるということは絶対にありえないと述べている。

そして、永田誠自身も、昭和五六年七月、「未熟児網膜症の現況」として、最近の本症による盲児はほとんどが光凝固による治療にもかかわらず失明しており、しかも視力障害以外の重複障害を極めて高率に伴つていることは、重症未熟児、特にⅡ型網膜症の治療に限界があることを示し、年間全国で推定五〇人程度の重症視覚障害児は今後も発生し続けることが予想されるとし、また、植村恭夫は、未熟児網膜症(昭和五七年、産婦人科MOOK、No.九)において、我が国での光凝固の適応例が少なくなつた事実とあわせ、結局治療効果が判定できないままこの治療法は使用されない時代に入つていくことが予想される。しかし、医学一般にいえることは、予防にしても治療にしても、一〇〇パーセントに予防、治療が可能ということは現実性に乏しい議論であり、ことに個体差の甚しい本症については今後も少数ではあるが重症例の発生は続くものと考えられるとしている。

以上の事実が認められ、これに従えば、本症は児の網膜の未熟性を素因とし、酸素投与を一つの原因あるいはひきがねとして発症するものであるが、本症の病態、その症状と進行及び類型に関してはなお定説をみず、光凝固法の奏功機序もなお必ずしも明らかでないのみならず、昭和四九年度厚生省研究班より確立された診断治療基準、特にⅠ型、Ⅱ型(激症型)等の分類ですら、十分な合意に基づくものではなく、本症の意義、進行の状況、治療法等についてなお流動的であるというべく、今後における症例の集積と研究の継続が要求される医療状況にあるものと認めるのが相当である。

四  被控訴人の責任の成否

1医師は、人の生命、身体の健康の維持、病状の改善を目的とする診療行為に従事するものであるが、患者の診療に関し、その具体的な病状、医学の状況に従い適切とされる措置を施行した場合には、それが当時の医学の実践における医療水準に照らし相当であると認められるかぎり、義務違背による責任を肯定されることはないと解すべきである。

よつて、本件診療当時である昭和四八年前半における本症に関する一般的な医療の水準について検討する、〈証拠に〉前掲湖崎鑑定の結果を総合すると、次の事実が認められ〈る。〉

(一)  本症の発症と病態

本症は、酸素投与を受けた児に発生することが臨床経験により明らかとされて、昭和四〇年代のはじめ頃までは保育器内濃度を四〇パーセント以下にすれば本症の発症は防げると考えられていたが、植村恭夫らは、酸素濃度を四〇パーセント以下に保つた場合ないしこれを全く使用しない例にも本症の発症がみられることから、未熟児について呼吸障害ないしチアノーゼが認められをとき、児の脳障害の後遺更には死亡の転帰を防止するため、高濃度の酸素の投与を継続する必要があるとしながらも、右のようなチアノーゼ等の症状に改善がみられる場合には、本症の発症を予防するため酸素投与を漸減して行くべきであるとし、このほか、本症の発症は環境酸素濃度(PO2)よりも、網膜の動脈血酸素分圧(血中酸素濃度、PaO2と相関し、これを一〇〇mmHg以下に保つことが必要であり、自然寛解率も高いことが報告されて、未熟児に関する酸素管理の重要性が強調されていたが、昭和四七、八年当時PaO2は児の動脈(臍動脈など)から0.2ないし1CCを採取して行われていたが、これについては感染の危険が大きく、しかも必ずしも容易に施行できるものでなく(経皮的測定法は未開発の状況である。)、これによる酸素管理をしている病院も少なく、酸素投与の基準として保育器内濃度一応四〇パーセント(ただし、無呼吸発作の場合はこれを上廻る。)とすることとされていた。また、本症については、なお、前記厚生省研究班によるⅠ型、Ⅱ型のような分類も行われず、オーエンスの分類に従い或いはこれに若干の修正が加えられた分類により、本症が段階的経過を辿るものと考えられ、これに基づく診療が行われていたが、同四六、七年頃以降、右分類にあてはまらない急激に進行するタイプ(激症型、あるいはⅡ型)の症例が識別、報告され始め、従前の本症についての診断、治療に関し医師、病院間に混乱をみられ、これに対する統一的基準の確立が望まれるような状況であつた。

(二)  眼底検査方法

永田誠らは、昭和四三年以降、本症に関する光凝固施行事例について報告し、その治療適期であるオーエンスⅡ、Ⅲ期を判定するためにも定期的眼底検査が必要であるとして、眼科医において未熟児の生後一ないし三月間の時期に、児の網膜周辺部の観察を行うべきことを提示し、眼底検査の重要性につき認識を迫る状況であり、一部には、右提唱に従い児の眼底を検査することを試みる医師らが現れていたが、同四七年頃には、双眼立体倒像鏡による検査に転換され、その精度が高まりつつあつた。植村らも、既に、眼底検査を酸素投与のモニターとすることを提唱し、更に本症の早期発見のため体勢の確立と、眼底検査実施の必要が強調されていたが、右検査は有効な治療方法の存在を予定すべきであるとの配慮から、後に述べるように光凝固法の追試がなされるほか、治療適期など同治療方法との関連づけが研究過程にあつた。このように、眼底検査は、光(冷凍)凝固の実施時期決定のため必要とされる動きがみられたけれども、右検査方法が専門機関で広く行われるようになつたのは昭和四八、九年以降であつた。

(三)  光凝固法等の療法

永田誠は、その開発にかかる光凝固法の有効例から同療法を施行する病院間の体勢を整え、本症の失明例をなくすべきことを提唱し、昭和四二年以降、各研究者において、本症に関する専門研究によりこれを小児科眼科等の専門誌に発表され、同四七年以降、同療法が本症の重症例に有効、画期的であるとして注目されたが、一方では、光凝固法は周辺網膜であるとして注目されたが、一方では、光凝固法は周辺網膜の無血管帯附近の新生血管を破壊するものであるうえ、自然治癒例が多いことから適期を慎重にし、片眼凝固によるべきであるとする意見もあつた。このほか、本症についての急速進行例が報告され、同療法によつてはその病勢を阻止できない変化をおこしている例があると指摘されるなど、光凝固法を本症の類型を考慮せずに施行することについて反省される状況で、その治療基準(類型のほか、その方法、回数)も確立をみなかつたが、同療法の症例報告に基づき、有効とされる同療法を施行するのが妥当であるとの観点から、医療機関においてこの実施に向いつつあつた。もつとも、同療法の装置を備えうる医療機関は限られ(国立小児科病院でもこれを購入したのは昭和四八年である。)、しかも、未熟児の瞳孔の拡大が不全で、極小未熟児では透光体混濁がみられることが多く、このため熟練を要し、手技についての研修が要求され、したがつて、同療法の施行は少数の専門医(病院)に限られるような状況であつた。

なお、抗過酸化脂質であるビタミン剤の投与による血管新生の抑制等は、臨床医の間でこれを有効として行われる傾向にあつたが、ステロイド剤の使用についてはその効果が判定できないとして否定的であつた。

以上の事実に、前示三で認定の事実及び〈証拠〉(馬嶋昭生昭和五一年九月七日証人調書)を総合すると、本件当時、本症の予防としては、酸素等管理の重要性から、末熟児に対し眼底検査を施行し、効果的とされる光凝固法の適期を判定するため、児の生後一定期間内における経時的検査の必要が強調され、これによる適期(オーエンスⅢ期頃)に、病勢により光凝固法を施行すべきであるとされていたが、なお、これらの知見は先駆的な病院及び研究者らの間で実験的に試みられるにとどまり、これらがなお本症の実態に即した検査及び治療方法として臨床医の間でほぼ定着して本症に関する一般的水準に達していたとまでいうことができず、右眼底検査の意義及び治療法との関連による有効な治療効果の獲得は、昭和五〇年に至り、厚生省昭和四九年度研究班報告の「本症の診断治療基準に関する研究」に従い、本症におけるⅠ、Ⅱ型の分類が確立されて始めて体系づけられ、臨床医間の一般的基準、方法として定着するに至つたものと認めるのが相当である。

よつて、以上のような一般的な医療の状況に従い、本件診療当時における被控訴人病院医師に関する診療上の義務違背の成否について検討をすすめる。

2診療上の義務違背について

(一) 酸素管理について

控訴人らは、本症の発症予防のためには酸素投与の管理を徹底することが重要視されていたのに、被控訴人病院医師において、本症の発症を防止するべく、保育器内の酸素濃度を点検するとともに、PaO2を頻回に測定する等して適切な酸素投与をなすべき義務があるのにこれらを怠り、控訴人香織に対し、四二日間も長期にわたり酸素投与を継続し、本症を発症するに至らせたと主張するので考える。

前認定のとおり、極小未熟児(低体重出生児)に関しては、特発性呼吸症候群による死亡ないし無酸素症等による脳神経障害等の危険、後遺を回避すべく酸素の投与が必要とされるが、その反面、右酸素投与がなされる場合には、児の網膜の未熟性素因として本症を発症する危険があり、したがつて、新生児の身体条件等によつてその全般的状態を十分勘案し、適切な酸素管理のもとに量、濃度、期間につき点検して、これを投与することが必要であるから、右酸素投与の要否、限界に関しては、これらの状況、症状を勘案した医師の裁量に委ねられているものと解すべきである。

(1)  酸素管理の当否については、控訴人香織が出生した昭和四八年六月当時の未熟児に対する酸素管理の一般的水準として、児の脳障害後遺の発生を予防するため、酸素投与を必要とする場合でも、酸素濃度を四〇パーセント以下にすべきこととされていたこと及び香織が同年六月一五日、極小未熟児として出生し、被控訴人病院未熟児センターで同日から同年七月二六日まで酸素投与のほか、その症状に応じ諸多の診療を受けたことは前示のとおりであり、前記診療経過及び〈証拠〉、原審における鑑定人大浦敏明の鑑定(大浦鑑定)の結果によれば、被控訴人病院伊吹医師は、未熟児医療に関する経験と臨床例に基づき、昭和四八年当時、低体重出生児の状態が悪い場合にはこれを改善するため、生後直ちに酸素投与を開始するのが妥当であると考え、文献等により、毎分四リットル以内、保育器内濃度四〇パーセント以下をもつて適正酸素流量と認識していたところ、控訴人香織は、生下体重一〇〇〇グラムの低体重出生児であり、現に未熟児センターに入院する以前から毎分約一リットルの酸素投与を受け、右センター入院時には九七〇グラムの体重しかなくあまりにも小さすぎ、その全身状態が悪く低体温でもあつたため、その流量を毎分四リットルとしたものであり、その後、生後一八日まで毎分四リットル四〇パーセント以下であり、同一八日から段階的に減量することとし、自然環境(約二〇パーセント)への適応を考え、同三八日まで毎分二リットル、ついで同三九日から中止する生後四二日まで毎分一リットル(以上三〇ないし二〇パーセント)の投与をしていること、控訴人香織の出生直後の状態は、アプガー指数を除き一般的に重篤で、その後生命の危機を脱したものの、クベースに収容酸素投与を受けた期間の呼吸には不規則な場合があつたほか、右毎分四リットルを投与されていた生後一八日までは、正常とされる呼吸数の三〇回を上廻り、最低三八ないし最高六六回、その後酸素投与の中止されるまで最低三三ないし最高五八回を記録し、体温についても、生後三四度ないし三六度と漸増しながらも低い状態が継続し、黄疸症状もみられ、とくに、生後一七日目までには四肢、口唇にチアノーゼがみられ、この間の生後一二日には、無呼吸発作があり、これは比較的短時間に改善されたがこの発作の可能性は継続していたもので、生後一八日以降においてはチアノーゼの徴候はなく、体重の生下時体重への復元とともに全身状態は漸次改善されていたが、なお、呼吸状態は生後二五日頃まではシーソー様で、かつ、不規則であつたことが認められ、また、以上に関し、前掲大浦鑑定の結果では、本児の出生から翌日にかけての状態は重篤であり、低体温等の悪条件を基盤に呼吸障害と低血糖という合併症が加わり、生命も危ぶまれる状態にあり、生後二ないし四日において第一の危機を脱したとはいえ、生後約一五日間の呼吸数、低体温等によれば、この間の酸素療法は絶対的適応であり、同一六日以降において体温、呼吸数の改善はあるが呼吸の不安定があることから酸素濃度を減量しこれを三〇パーセント以下として投与を継続したことについては、極小未熟児の低酸素症による脳障害の予防とRLFの二律背反的な要因のいずれに重きを置くかの医師の選択的配慮によるものとして相対的適応であつたとされ、以上から右大浦鑑定において、酸素投与が実質的に過剰であると断定する十分の根拠はないとしていることを総合勘案すると、伊吹医師が控訴人香織の全身状態を考慮し、脳機能障害の発生予防として実施した酸素投与については、同児の出生当初はもとより、生後一六ないし一八日以降投与を継続したことについては適応を肯定することができ、香織のチアノーゼ、不安定な呼吸状態等における酸素投与の限度については、本件診療当時の医療水準に照らしこれを相当な措置であるとして是認することができる。

もつとも、控訴人らは、同香織に対し真に酸素投与が必要であつたのは生後四日間と生後一二日の無呼吸発作後の数時間であるし、その余の期間の酸素投与は不必要であるのに、単に診療関与医師の不安感を回避するため漫然これを投与したものであつて、呼吸数についても酸素投与が打切られた後と大差がないから、これを酸素投与の指標とすることができないとし、原審における鑑定人中田成慶、江林利弥共同鑑定(中田・江林鑑定)の結果中には、右酸素投与の時期に関しこれを裏づける部分があるけれども、前示のように極小未熟児の低酸素症等による重篤な脳障害後遺を考慮すると、児の状態、網膜の未熟性と酸素を契機とする本症の発症を比較考量しつつ、生後一定期間適切な酸素管理のもと、水準的な酸素流量を維持するのが、医師の義務に属するというべきであつて、伊吹医師が前示のとおり控訴人香織の状況から、酸素投与の必要の認識のうえにその症状との対応において酸素量を規制し、これを全身状態の改善、投与打切りに対する順応との関係において減量していることは前示のとおりであつて、これらは、医学、医療の必然による措置というべきであり、また、酸素投与の期間中とその中止後では児の環境条件が異るものであり、この両者の呼吸数を単純に比較するのも妥当でないから、控訴人らの右主張と前掲中田・江林鑑定の結果は直ちに採用することができない。なお、当審証人江林利弥の証言中には、このほか控訴人香織はウイルキンソン・ミキティー病でなかつたから長期間の酸素投与は疑問であるとする部分があるけれども、伊吹医師の酸素投与は、既述のとおり児の全身状態等を勘案してなされているものであるから、これをもつて前認定の妨げとすることはできない。

(2)  控訴人らは、右酸素投与に際しては、血液ガス分析を施行し、血中酸素濃度(PaO2)の測定を生後五日以降において実施すべきであり、これがなされておれば、長期の酸素投与の打切りが可能であり、本症の発症を回避しえたとするので考えるに、前示臨床経過によれば、控訴人香織についての血液ガス分析は、同児の生後一日、二日、四日に行われたが、その後は実施されていないところであり、前掲大浦鑑定の結果によれば、酸素供給における適応の判定はPaO2が最も直接的であり、右以降においても血液ガス分析によつておれば更に早期に香織に対する酸素供給の打切りが可能であつたかも知れないとされ、前掲中田・江林鑑定の結果でも同旨の見解が示されているものであつて、これらによると、右分析が行われた場合には或る程度早期に酸素投与が打切られた可能性は否定できない。しかしながら、前示二の診療経過に〈証拠〉を総合すれば、伊吹医師は、控訴人香織の出生直後の状況から、酸素投与を行つたが、これに伴い同児について血液ガス分析の必要を意識し、生後一日の血中酸素濃度を測定したところ、PaO2が四九mmHg、同二日の同濃度は六八mmHg、同四日には七一mmHgであつたことから、同児の右結果が正常値九〇mmHg以下であるがこれに近づきつつあることをみてとり、その後においては危険を犯してまでその測定をする必要がないと判断し、右検査による感染の危険等をも考慮してこれを中止したこと、当時のPaO2の分析技術によれば、0.2CC、正確を期すため0.5CC程度の動脈血が必要であり、その採血部位として選ばれる橈骨動脈の血管は極めて細く採血に技術を要し、臍動脈からの採血もあつたが困難が伴い、カテーテルの留置で血栓の形成、出血、感染の危険があること、被控訴人病院にあつては、PaO2の分析機器は未熟児センターになく中央検査室に置かれていたほか、当時の被控訴人病院の検査技術では、一CCの動脈血の採取が必要とされたので、体重一〇〇〇グラムの児では全血液量が一〇〇グラムとされるため、その検査による全身状態への影響が大きいと考えられ、また、控訴人香織については鼓動脈からの採血が行われたが、生後四日の採血については、鼠径部からの出血が五〇分間も持続する状況であり、これが爾後の分析を中止させる一因となつたことがそれぞれ認められ、以上の事実によれば、伊吹医師は、控訴人香織の生後の全身状態を考慮し、その生後一日ないし四日の間に三回PaO2を測定して児の血中酸素濃度を把握し、生後五日以降同児のPaO2を測定せず、血管内の酸素濃度による酸素管理を持続するに至らなかつたものであるが、児の状態を把握しその改善のための処置の必要を考慮しながらも、不急の侵襲を回避すべきであるとした右医師の判断は、未熟児医療における小児科医の対応であり、なお、これを合理的なものとして是認することができる。しかも、前示三2(一)で認定の事実に、〈証拠〉を総合すれば、山内逸郎が発案した経皮的動脈血中酸素分圧測定法は、昭和四八年当時普及するに至らず、また、右測定法により未熟児の血中酸素濃度が短期的に大きく変動することが明らかにされ、この方法ですら間接的であるため必ずしも正確なPaO2値をえていない状態であることからすると、本件診療当時、伊吹医師において、控訴人香織につき、その生後五日以降PaO2の測定を持続したとしても、前示のような侵襲による感染等の危険を犯す以上に検査による利益が期待できないというべきであるから、PaO2の測定を行わず酸素管理をしたことについては、これをなお医療の実践における処置というべきことは明らかである。

以上の点に関し、中田成慶は、〈書証〉(証人調書)において、血液の採取は一CCが普通で一日六回でも輸血を併用すれば問題がないとしているけれども、かかる貧血状態(酸素欠乏)の作出が侵襲というべきであり、その他右輸血における成人血の影響を考えると、直ちにかかる見解に依拠できないといわざるをえない。また、控訴人らは、児の状態が劣悪なとき右分析測定を行いながらその後これを施行しないのは背理であるとするけれども、最少限の侵襲による診療上の効果を期待すべき医師としては、検査、処置等は、診療の経過や児の状況によりその必要が変動することを予定すべきであり、児の状態が悪くても最少限検査の必要を認めるべき場合があり、逆に状況との関連により不急の検査等の必要が低減することを肯定すべく、この判断については医師の裁量に委ねられるものと考えられるから、右の反論は当らないというべきである。もつとも、〈証拠〉によれば、右中田らは、本件について、生後五日以降の酸素投与は、同一二日の無呼吸発作後の数時間を除き、PaO2の測定なく行われたもので、危険であるうえ合理的理由もなく、また、右測定は容易かつ負担もなく行えるのであるからこれを回避する理由はないとし、これが行われた場合には早期に酸素投与が中止され本症に至らなかつたとしていることが窺われ、酸素投与上の過誤があるとするもののようである。しかしながら、本件当時PaO2を測定することが一般的水準であつたとしても、これを必ずしも容易に施行できる方法でないことは前叙のとおりであり、児の状態とその実施の必要と危険を考量しその限度を画定するのが適切な診療というべきであるから、これらの要因と無関係に、これを頻回に継続実施すべきであるとするのは疑問であり、これを施行すれば本症の発生を阻止できたとして、右検査不実施の事実につき過失を推認することもできないから、右鑑定の結果等には直ちに左袒することができない。

(3)  次に、控訴人らは、未熟児に対し酸素投与をするについては頻回に眼底検査を実施して本症の早期発見に努め、これを発見すべく、眼科医と小児科医の協力のもと適切な酸素管理をなすべきところ、しかも、被控訴人病院では未熟児につき生後一週間目に眼底検査をするとされているのに、合理的な理由もないのに、右検査を香織の生後一九日まで一二日間遷延させ、眼科から小児科への通知についても、斎藤医師において、眼底検査の結果を通知用紙に簡単に記して連絡するだけで、この連携が不十分ずさんであり、その情報が酸素投与及びその管理に反映されていない旨主張するので考える。

前示のとおり、被控訴人病院においては、未熟児につき生後一週間目には眼科の斎藤医師による眼底検査(児が保育器中)を施行し、その後は約一週間毎にこれを実施することとされ、右医師の指示によりその回数を調整することが建前であつたが、右検査に関しては、常に小児科医による児の状態についての判断が優先、主導的であり、児の全身状態が悪い場合には、その判断で第一回の眼底検査時期を遅らせ、更には、これを一週間隔で行うことを変更することが予定されていたものであつて、このように眼底検査の時期を、小児科医の判断により、未熟児の状態によつて変動させることは、具体的診療における合理的措置として是認すべきであるところ、既に診療経過で認定したような控訴人香織の全身状態、とくにその生下時体重、心臓、呼吸の状況等に従い、伊吹医師が同児に対する眼底検査を遅らせ、その全身状態に改善がみられた生後一八日直ちに眼科医に同検査を依頼し、同一九日これを実施した措置には、相当な理由があるといえる。しかも、前示昭和四九年度厚生省研究班の報告においても、中間透光体混濁が消失し、これが透明となる生後三週間以降に眼底検査を実施し、その後一、二週間隔とするのが妥当とされていることに照らすと、本件において、児の生後一九日に眼底検査が行われていることは、被控訴人病院において一般的とされていた時期等が修正されていることにはなるけれども、未熟児に対する眼底検査実施の時期としてはむしろ適正であつたというべきであるから、この間香織の全身状態が一時的に改善されたことをもつてその時期遷延の根拠とする控訴人らの主張は、これを当をえたものとすることができない。

また、小児科と眼科の連携についても、未熟児医療を担当する総合病院に対しては、各科の協同によるより水準の高度な診療が期待されて然るべきであるが、前認定の診療経過と〈証拠〉によれば、被控訴人病院における小児科と眼科の連携としては、眼科の斎藤医師が検査にあたり、同四八年七月三日(生後一九日)から一週間毎に、同月一〇日、一七日、二四日と眼底検査を行い、その都度通知用紙あるいは口頭の連絡により、控訴人香織の眼底の状況について図示を含めた所見の伝達が行われ、更には、この間で討論による意見の交換が行われているもので、担当の伊吹医師は、これらの通知用紙による眼底所見を解釈、勘案して、なお酸素投与ほか治療の方針を決定し、かつ、必要な薬剤の投与等の治療を行つていることは明らかであり、したがつて、眼科からの指示等の連携に特にずさんな点があつたとすることもできない。もつとも、前認定の診療経過によれば、同月三日から酸素投与が中止された同月二六日に至る間の眼底検査結果については、眼科斎藤医師から小児科に対する通知票の記載上、診断所見等はあるがとくに具体的な指示もなく、同通知用紙の所見が児に対する酸素投与量の減少、投与の中止に必ずしも結びつかず、特に同月一七日の検査結果では括弧書きであるがオーエンスⅠ期との連絡がなされているのに、これが控訴人香織への酸素投与量に格別の影響を及ぼすこともなかつたとみられるけれども、〈証拠〉によれば、斎藤医師は、当時オーエンスの分類に依拠し、本症が段階的に進行するとの認識から、香織に対しても同Ⅲ期をもつて光凝固の適期であると考え、児の全身状態の管理はむしろ小児科において施行すべきであるとの判断により、特に小児科に対し酸素療法の改善を指示することもなく経過したもので、右通知等を受けた伊吹医師としても、眼科からの診断所見、その眼底の状況等から、酸素の投与量を調節し、段階的にこれを減量していたのであつて、右七月一七日当時の酸素投与量は毎分二リットルに低減され、酸素濃度も三〇パーセント以下に押えられていたことから、なお同児に対し必要とされる酸素投与を中止する措置にまで出なかつたことが認められるところであり、しかも、当時本症に関しては、段階的に進行するタイプのほかに、臨床上この症状が急激に進むタイプの存在することが指摘されていたことは前示のとおりであるけれども、この類型については医学界でも混乱があり、この診断、治療基準に関する分類が確立していなかつたのみならず、オーエンスⅠ期の症状が現出すると直ちに酸素の投与を中止すべきであるとの治療方法ないし方針はなく、むしろ児の状態による酸素投与及び中止等の酸素管理に関しては、具体的な診療の場での医師の判断に委ねられていたというべきであるから、眼底検査所見を意識しながらなお酸素投与を継続した伊吹医師の右酸素投与をもつて、眼科との連携の不十分等医療水準に充たない措置であるとすることもできない。

(4) 原審証人伊吹良恵は、未熟児が低体温である場合には、解糖等の活性をあげるためにも酸素の投与量を増加すべきであり、したがつて、控訴人香織についても右作用を増大させ、これによる低体温状態改善のためにも酸素投与が必要であつたと供述し、右の要因をも含め、伊吹医師が施行した酸素投与上の措置が適正であつたとみられるべきことは前示のとおりであるが、これに対し、控訴人らは、既に児の全身管理、児の低体温改善義務に違反があつたとし、改めて右酸素投与を是認する根拠がないと主張していると考えられるので(けだし、そのいう全身管理と本症の発症との間に直接の関係はない。)、これについて検討することとする。

前認定の診療経過によれば、控訴人香織は、生後一日には体温が34.7ないし三五度程度であり、その後も一〇日頃まで三四ないし三六度を上下するような状況で、同一一日頃三六度前後に達した後、同一二日から三五ないし三六度の状態が続き、これが同一七日から三六度前後、更には三六ないし三七度に上昇しているもので(もつとも、同四〇日、一時三五ないし三六度)、控訴人香織が生後十数日にわたり三六度以下の低体温状態を持続したことは明らかであり、未熟児の低体温がその予後に対し重大な影響を及ぼすことはいうまでもないから、同児の診療に関与する医師としては、右状態を早期に脱するためその改善をはかり、他の酸素投与ないし治療法の施行に支障がないようにする義務があつたと解されるところ、〈証拠〉及び前掲大浦鑑定の結果によれば、被控訴人病院では、控訴人香織を保育器内に収容して、児の温度の極端な上昇による発汗、疲労等を防止するためにも、まず室温を調整したうえ、その保育器内温度を三二度前後に維持し、このほか、保護フード、反射盤を用いて幅射熱の発散を防止するなどして、その低体温の回復ひいては児の未熟性の除去を計り、これが漸次上昇して、生後一七日頃からこの状態に一応の改善がみられたこと、また、伊吹医師は、児の状態が悪い場合には酸素投与により解糖作用を活発にする必要からこれを投与したもので、逆に保育器内の温度を著しく上昇させることには危険があるとし、大浦敏明も未熟児哺育においては酸素消費をできるだけ少なくする必要があり三二ないし三五度の中性環境が妥当で、本児につきフードを使用することにより保温効果がえられたとし、また、極小未熟児の体温の上昇は困難で、早期に体温をあげると無呼吸発作を頻発することから、これを慎重に行い段々に上昇させるべきであるとの意見が近時に至るまで存在していたとしていることが窺われ、以上によれば、伊吹医師において、保育器内未熟児の状態を考慮して急激な温度変化によらず、右に認定のような処置により、体重等の状態と共に体温の漸増をはかり、その上昇をまつたことにつき、診療上の義務違背を肯認することもできない。なお、右中性環境に関して、〈証拠〉によれば、昭和四〇ないし四六年頃には一二〇〇グラム以下の児につき中性温度状態のための保育器内温度として三四ないし三五度Cとされたとしているけれども、右は前認定の中性環境温度と特に矛盾するものではないと考えられる。

もつとも、当審証人江林利弥の証言及び前掲中田・江林鑑定の結果では、体温は未熟児哺育のうえで呼吸の確保等と並び基本的養護事項の一つであるとし、控訴人香織に対し保育器内温度を低く設定し、保護フード等のほか温度上昇措置をとらず、低体温改善に酸素を投与する誤りをしたなど、医師による低体温防止措置に欠陥があるとしているけれども、なお、一般的な指摘にとどまり、児の症状、状態との具体的関連を欠くものとして直ちに採用することができない。

(二)  出生直後の全身管理について

控訴人らは、被控訴人病院のような大学付属病院においては、産科と小児科との連携を密にして未熟児を全身的に管理哺育すべきところ、控訴人香織はその出生後未熟児センターに収容されるまで五時間を費され、この間の右管理をおろそかにされたもので、被控訴人病院の未熟児哺育の体制に落度があつたと主張するので検討する。

被控訴人病院のような医科大学付属病院においては、各科が完備、充実しているのであるから緊急を要する患児については専門分野間での協力と患者の移動についての態勢が整備されているべきことは当然であつて、児の出生後の状況上その収容と移動に制約のない限り、できる限り適切な環境下における早期の措置が期待されるところ、前示のとおり控訴人香織は、出生後産科の保育器に収容されたが、同病院の未熟児センターは産科と同一の三階にあつたのに、同児が生後五時間右センターに収容されなかつた事実によれば、同児につき産科、小児科の連携が一応順調でなかつたことを窺わせる。しかしながら、同一病院内の各科間の患者の移送については、各科の収容能力、体制により或る程度の時間的余裕が必要である点を別としても、前認定の診療経過に、原審証人野呂幸枝、同岡野順子の各証言によれば、控訴人末子は、被控訴人病院産科で控訴人香織を出産したが、胎盤早期剥離のため多量の出血がありショック状態であつたところ、香織の出生時の全身状態は、アブガースコアが一〇点であるが、レストラクションスコアが二点、呼吸数四八ないし六〇回、チアノーゼ(+)などで、重篤ではあるが特に緊急を要する状態ではないことから、岡野医師らは、点眼、体重測定等最低限の措置にとどめ新生児室の保育器に収容し、同内温度を三二度Cに保ち、ルーチンに毎分一リットルの割合による酸素投与を始めたのち、産婦の出血による産児への負担、同児の状態による呼吸障害等を懸念してその後これを同病院未熟児センターに入院させていることが認められ、以上の事実に、香織の生下時体重が一〇〇〇グラムであつたこと等を併せ考えると、同児の状態は、重篤ではあるが緊急に未熟児センターに収容しなければ生命に異常がある状態ではなく、しかも、この間、同児に対し未熟児センターにおけると同様保育器内に収容され、ほぼ同一の条件のもと酸素投与が開始されているのであるから、同児について生後措置等のないまま放置され、同センターへの収容が根拠もなく遷延させられ、児の状態を悪化させたとすることもできず、総合病院における一般的な治療の水準を考慮してもなお、この間の産科、小児科の連携がずさんであつたということはできない。

これに対し、前掲中田・江林鑑定の結果は、未熟児を早期に未熟児センターに収容し、特発性呼吸症候群等に対応すべきところ、控訴人香織は当日午前九時に出生し、しかも全身管理が必要な児であつたから同児を直ちに未熟児センターに収容すべきであり、また、全職種の連携が可能な時間帯であつたのに放置されて体温の下降を生じ、更に、PaO2の測定なしに酸素投与が行われたとしているけれども、前示のように、本児については産科の保育器に収容され、三二度Cの温度が維持され、酸素を必要とする児に対する当面の措置として毎分一リットルの酸素が投与されていたものであるから、未熟児センターへの経過的措置としては適切であつたというべきであり、また、当審証人江林利弥は、同人の勤務した愛染橋病院においては、極小未熟児の出生に際しては事前の連絡により、必要があれば小児科からこれを収容に赴き直ちに治療を開始している旨述べるけれども、病院のかかる連携体制、治療方針に差異のあるのは当然であつて、被控訴人病院においては、緊急の場合小児科へ移送することとする体制をとつているところで、この間に相違があるからといつて、他の病院の体制が不合理なものでない限り、これを非難することもできない。

なお、控訴人らは、控訴人香織について、甲第七六号証の施設内で放置された児と同一に取扱われたのではないかとの疑問を呈しているけれども、前示産科での処置に照らしてもこれを肯認することができない。

(三) 眼底検査実施義務について

控訴人らは、本症の発生を防止するため、その早期発見、治療として、生後一週間目から数か月にわたつて必要に応じ一日数回の眼底検査を実施すべきであるのに、生後一九日目に初めて同検査を実施したもので、その遅延に合理的な理由がなく、その後もほぼ一週間隔で実施しているにとどまり、被控訴人病院医師らにおいて、本症発生防止のための真摯な努力を怠つたと主張するので検討する。

酸素投与における眼底検査については、当初これが酸素投与のモニターとされたけれども、むしろ、右酸素投与を契機として発生する本症の発症を防止するべく、これを早期に発見し、その進行状況の観察により治療適期を判定するため、生後一ないし三か月、経時的にこれを実施する必要が確認されていたが、右検査は、有効な治療方法の確立を前提として初めてその意義を肯定できるところ、本件当時、光凝固法はなお一部の先駆的な研究者の間で施行されるだけであり、右眼底検査と治療方法との関連づけがなお研究過程にあつたことは前示のとおりであるから、本件当時、被控訴人病院において眼底検査を治療方法と結びつけて実施する義務があつたとみるべきかについては、医療の一般的水準に照らして疑問なしとしないところであるが、前示のとおり、被控訴人病院においては、既に眼科の斎藤医師が早くからこの訓練を受け未熟児に対する眼底検査を施行しており、また、〈証拠〉によれば、被控訴人病院では、未熟児医療の研究が進み、昭和四一年以降光凝固装置を備え、本症の治療例を有していたことが認められるから、総合病院たる被控訴人病院においては、先進的研究と研修が進んだ段階にある医療機関として、当時、本症に関し最善とされる療法を施行する前提として眼底検査により未熟児の状況を追跡することが可能であり、かつ、これが義務とされたと考えられる。そして、前示のとおり、被控訴人病院において、控訴人香織に対する眼底検査が七月三日(生後一九日)に初めて施行されたが、右検査の実施が遷延したことについて義務違背がないとみるべきことは既に説示したとおりであつて、前認定の診療経過によれば、その後においても、同月三一日まで一週間間隔の眼底検査が実施され、また、同月一七日の検査結果として、眼科の斎藤医師からの通知用紙により、本症(オーエンスⅠ期)なる報告がなされているが、この間とくに眼底の活動による変化がなかつたところ、右斎藤医師は、控訴人香織の眼に活動の徴候がみられた同年八月四日以降においては、自ら求めてその検査回数を増加し、同月四日についで七日、九日、一〇日、一四日、二一日、二三日、二五日、二八日、同年九月四日と観察を続けているところである。そこでまず、同年七月三日から八月四日に至る間の眼底検査について考えるに、〈証拠及び〉前掲湖崎鑑定の結果によれば、眼科の斎藤医師は、本症がオーエンスの分類に従い段階的に進行するとの一般的認識から、控訴人香織についても同様に進行するものと考え、七月三日の時点で、同児につき本症初期の可能性を考えながらも、自然寛解のありうることを考慮してその経過を観察し、同月三一日浮腫(+、−)が出現したのでこれに注目し、同年八月四日予定より早期に眼底検査を実施し、これにつきオーエンスⅠ期と判断したが、この間、その後の両眼の急激な混濁を予想できなかつたことが認められ、以上によれば、斎藤医師が眼底検査に関する一週間間隔とする基準に従い、その症状の進行に留意しつつ検査を施行し、眼底の観察を続けたことについては、当時の水準に合致した検査回数であつたというべく、右観察の経過についても、オーエンスの分類に依拠した措置として、特段の遺漏を認めることはできない。ついで、同年八月七日以降の検査についてみるに、前認定の診療経過に、〈証拠〉及び前掲湖崎鑑定の結果を勘案すると、右八月四日から三日後の同月七日、斎藤医師において、更に眼底検査を施行したところ、控訴人香織の右眼は、水晶体後部に混濁があつて透視が不能となり、その後この状態が継続して変化がなく、硝子体混濁が認められる以上、光凝固が不可能であると判断されたこと、左眼については、網膜周辺部に浮腫も血管新生も認められないが、浮腫があつたことと網膜の僅かな混濁から、あえてオーエンスⅠ期の段階と判断し、光凝固施行の可能性を示唆したものの、同月九日には硝子体が眼底出血により混濁して透見が不能となり、同月一〇日には出血は停止したが硝子体内への血液混入からなお透見が不能となり、同月一四日にも同様の状態であつたところ、同月二一日には右混濁が薄らぎ網膜血管の透見が可能となり、その後透見困難な状態が続いていたが、かかる眼底の状態では光凝固法の施行は不可能であるとされる状況であつたこと、そしてこれら同月七日以降の症状の変化は、本症についてのいわゆるⅡ型か混合型と認めるのが妥当とされていることが認められる。そして、以上の点に、前掲湖崎鑑定の結果を総合すると、斎藤医師において、急激に進行する症例についての経験があつたとしても、なお本件につきオーエンスⅡ、Ⅲ期を光凝固の適期とする知見に従い、眼底検査を継続しこれが激症型との認識に至らなかつたところ、本症が同月七日から九日にかけ急激な進展を示すに至つたものであつて、当時、既に説示したような本症についてのⅠ型、Ⅱ型の診断治療基準の確立をみない状況であつたことを考えると、右医師において、児の両眼の症状変化に対応し、オーエンスの分類による手術適応の状態にないと判断しつつも、週二回程度の検査による観察を試みた、以上のような措置は、当時の医学的知見に照らし適切であつたというべきであり、また、同医師において、光凝固法の施行を予定し、可能とされる治療を期するとしても、控訴人香織の両眼の状況が光凝固に不適であり、その実施不能とされる状態が継続したことは前認定のとおりであつて、眼底検査を頻回に実施する意義を認めることも困難であるから、八月七日以降の眼底検査回数が少いとして、被控訴人病院の義務違反を問うこともできないというべきである。

以上のとおり、本児に対する眼底検査は、光凝固と直ちに結合せず、また、その実施が客観的に不可能とされる以上、眼底検査の頻回の実施を問擬する実益はなく、この点の義務違反をいう控訴人らの主張は、その前提を欠き失当といわなければならない。

(四) 光(冷凍)凝固施行、転送義務について

控訴人らは、控訴人香織の本症はいわゆる激症型(Ⅱ型)でなかつたから、控訴人病院医師らにおいて、同児につき、症状の悪化した同月七日の時点で光凝固法を施行するため、被控訴人病院本院へ転送すべきであつた旨主張するので検討する。

前認定の診療経過に、〈証拠〉を総合すれば、斎藤医師は、控訴人香織に対する七月一七日眼底検査の結果として小児科に対する通知用紙に、網膜周辺部に混濁出現、浮腫(一)、血管蛇行出現、未熟児網膜症(オーエンスⅠ)と記載して、この旨連絡しているところ、斎藤医師は、本症についての徴候とされる浮腫はないが香織の血管の状況から、本症のⅠ期に移行する可能性があるとして警告する意味でオーエンスⅠ期と記載し、その後の眼底検査を継続したのであるが、同月三一日までの眼症状に変化はみられず、同年八月四日、同児の網膜周辺に浮腫(+−)が認められたので同月七日検査を施行したうえ、両眼の混濁の状況から考えて、右眼につきオーエンスⅠ期、左眼につき厳密な基準で網膜症といえるか難しいが、同Ⅰ期かそれに入つた段階であると判断し、光を集中させる焦点が定まらず光凝固できる状況ではなかつたけれども、本院の福地助教授に対してこの症例を伝達し、光凝固を依頼することがあるかも知れない旨示唆し、同月九日眼底検査をしたところ、右眼は透見不能で変化がないが、左眼硝子体内に出血があり赤く混濁して透見不能であり、網膜の一部のみが透見できるに過ぎないという急激な変化に遭遇したことが認められ、右七月一七日のオーエンスⅠ期との記載が前示のように警告的なものであつて同症についての確定診断でなく、斎藤医師による八月七日の段階における本症の活動期の診断も従前の分類により判別されている経過が窺えるほか、〈証拠〉及び前掲湖崎鑑定、大浦鑑定の各結果では、香織の右八月七日における右眼硝子体混濁、同月九日における左眼硝子体内出血ないしその後の両眼の状況からみると、控訴人香織については、本症の活動期の激症型であるⅡ型か少くともⅠ型(通常の進行型)とⅡ型の混合型(原審証人湖崎克の証言では中間型)であるとされているところで、以上からすると、斎藤医師は、右八月上旬の時点で香織の眼症状について、これを急速に進行する型であるとの認識に至らなかつたが、その状況及び進行速度からみて、本症を同月七日ないし九日において急変、進行したいわゆる激症型ないし中間型であつたと認めるのが相当である。

ところで、前認定の診療経過と〈証拠〉によれば、斎藤医師としては、本症が自然寛解することが多く、オーエンスⅠ期の段階では治療措置を講ずる必要はなく、これがⅡないしⅢ期に進行し、症状にその徴候が認められ血管の増殖変化が網膜から硝子体に及んで行く場合には、光凝固適期であるとの見解を持つていたところ、右八月七日、前示のような原因の不明な症状の急変を認めるに至つたことが認められ、しかも、同月九日から二一日までは、とくに右眼については透見不能で、左眼についても混濁ないし出血のためいずれも光凝固手術が不可能であつて、やつと見ることのできた同月二三日の段階では既に瘢痕期であり、これを転医させるまでに至らなかつたこと、また、〈証拠〉及び前掲湖崎鑑定の結果によれば、光凝固術の実施には、対象部位を検眼鏡下で観察しながらこれを凝固しなければならないので、本児のように右眼硝子体混濁、左眼硝子体出血による透見不能の状態では、光凝固(冷凍凝固)が要求されてもその施行は不可能であるとしていることがそれぞれ窺われ、以上の状況によれば、斎藤医師がオーエンスの分類により治療の開始を同期以降としてその経過を観察したことについては、そもそも、本件当時の医療界の状況下では、本症に関する診断治療の基準が確立をみるに至らず、斎藤医師においても、本児につき進行型であるとの認識を有していなかつたのであるから、右医師に対し光凝固を施行すべき義務があり、あるいはこれを転医させるべきであるとすることは困難であり、なおこれを行うべきであるとしても、香織の眼底の状況上光凝固等によることが不可能であつたから、このような状態からすると、光凝固ないし転医措置をとらなかつたのはむしろ当然というべきであり、したがつて、斎藤医師らにつき光凝固の適期を失した過誤があつたとすることはできず、右転医のための説明ないし療養指導義務もこれを肯定することができない。

なお、控訴人らは、斎藤医師は、被控訴人病院において既に急速進行する本症を経験していたから、本件においても香織の症状から右同型の認識が可能であり、適切な処置をとりえた旨述べるのでふえんするに、〈証拠〉によれば、斎藤医師は、被控訴人病院に勤務中、昭和四五年一二月に出生した訴外堀川幸子(生下時体重一一八〇グラム)が激症型により両眼を失明した事例を経験しており、このため控訴人香織の眼底検査についても慎重を期し、同四八年七月三一日以降この回数を増加していたが、同年八月七日から九日にかけて同児の硝子体が混濁するに至つたもので、このような急激進行例についての体験はなかつたことが認められるのであり、医師としては過去において担当した症例についての経験を生かし同種事例への対応をすべきであり、これが試行錯誤によらざるをえない医療における厳しい実践であるということができるけれども、前示のように、本件当時かかる急速に進行する型のあることは症例として発表をみるのみで、医学界においても本症の病像、類型について混乱があり、これに関する統一的な診断治療基準の確立をみない状況であつて、原審証人湖崎克の証言及び前掲湖崎鑑定の結果によれば、本症は極小未熟児の場合に急激に進行する可能性が大きいと一部で指摘されていたが、本児においては眼底所見で特にⅡ型への徴候を示さず、無血管帯領域の存在を示す境界線がみえていないことから、現時点でならとも角、右当時において八月七日以降の硝子体混濁、出血を予測するのは困難であるとされ、また、前掲乙第二三号証、同第二四号証の二でも、眼底がみえたときには発症しているというのがⅡ型の特徴であるとされているところであり、以上によれば、斎藤医師において、香織の臨床経過上、右八月七日ないし九日以前において本症が急激に進行することを予測できたとすることもできないから、控訴人らの右主張もまた採用するに由ないというべきである。

3診療に関する説明義務について

控訴人らは、被控訴人病院医師らにおいて、控訴人香織に対する診療につき、その両親に対し、本症発症の危険、本症の内容、その予防ないし治療の方法のほか、児の状態等についても十分説明する義務があるのにこれらを怠つていると主張し、被控訴人においてこれを尽している旨争うので検討する。

医師は、患者に対して検査、治療等の医療侵襲を加える場合には、診療契約上の義務ないしその承諾の前提として、患者又はその法定代理人に対し医学・医療の水準上相当とされる事項について説明し、これら事項の考慮のうえに、右診療行為を受けるか否かの選択判断をする場を設定し、その診療に関する患者の決定権の行使を十分なものとする義務があるというべきであり、本件についても、控訴人香織は極小未熟児として出生し、これについて酸素投与等の療法を施行するについては本症発症の危険が考えられたのであるから、児の両親である控訴人豊實らに対し、これらの比較検討のため十分な情報を提供する義務があつたことは明らかである。

よつて考えるに、原審における控訴人平田豊實本人尋問の結果中には、控訴人らの主張にそう供述部分があり、医師から眼と生命のどちらかと説明されたにとどまり、この説明が十分なされていないとしているけれども、かえつて、前示のとおり、小児科の伊吹医師は、昭和四八年六月一五日、控訴人豊實と面接し、同控訴人に対し、控訴人香織が状態のよくない未熟児であることから、酸素投与をせざるをえないが、その場合本症の危険がある、極小未熟児は生命の危険が高くこれが助つても脳性麻痺による精神障害があり、酸素の投与が一因となつて本症の障害を後遺とすることがある旨話し、その了解をえていることが明らかであつて、以上によれば、酸素投与と本症発症の危険、結果等について、十分な説明を尽していると認めるのが相当であり、右のように酸素投与についての説明義務の履践に欠けるところがない以上、酸素療法の詳細と限度、これに伴い必要とされる眼底検査、血液ガス分析等の施行ないしその程度についてまで説明することを要しないというべきである。もつとも、以上の説明に関し、控訴人らは、前掲乙第二号証(カルテ)の六月一四日の欄における症状説明の記載は不自然であり、しかも、本症に重点を置いた記載の順序にも疑問があるとして、この部分が後に手を加えられたのではないかと示唆するけれども、〈証拠〉によれば、伊吹医師は、診察の当日ないし翌日に、その経過を診療録に記載しているとし、右六月一五日以降においても、同医師の関係記入部分がいずれも丁寧であることが窺われるから、右のような記載の体裁をもつて、その記載時期、内容の正確性を否定する理由とすることもできない。

なお、控訴人らは、医療機関の側におして決定施行した療法につき、その補完ないし報告としての説明(療養指導)をも、医師のいわゆる説明義務としてとらえ、患者の側における治療の機会の選択、判断に資すべきであるとし、この点に関し、被控訴人病院、医師らにつき義務違反があるとするけれども、前認定の診療経過〈と証拠〉によれば、伊吹医師は、同年七月三日、同年八月三日にも控訴人末子に対し香織の眼の状態について経過説明をし、また、斎藤医師においても同年九月四日右眼の状態が悪く、左眼も本症に罹患しているとするほか児の状態について話していることが認められ、しかも、本児の本症は急速に進行する型であつたが、当時これらの診断治療基準が確立されず、光凝固法が水準的療法として定着するに至つていなかつたとみるべきことは前示のとおりであつて、本児について、右医療の状況及び眼状態上、同療法を施行する義務性がなかつたと解されるかぎり、症状等を報告のうえ、転送のため説明指導する義務を肯定することも困難というべきであり、また、右以降においても、被控訴人病院医師らにおいて療法の施行について右説明指導を怠つたとする事情も認められず、児の具体的状況及びその当時の医療水準との関連を別とし、一般的に最善の療法を施行するため説明指導義務を認めることは妥当でないから、以上に関する控訴人らの主張もまた理由がないというべきである。

五  結論

以上のとおり、控訴人香織の本症による失明の結果については、被控訴人医師らの過失及び被控訴人の診療契約上の義務違背が肯認できないから、控訴人らの本訴請求は爾余の点を判断するまでもなく失当であり、これらを棄却した原判決は相当であつて本件控訴は理由がない。よつて民訴法三八四条によりこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(大野千里 田坂友男 稲垣喬)

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